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19950117

2011年3月17日 (木)

「春よ、来い」ふたたび

1995年年初、NHK朝の連ドラは、「春よ、来い」だった。1歳だった娘は、疎開先の岡山から戻ってきた時、この歌を口ずさんでいた。「いすみ鉄道」は千葉県にある。http://www.youtube.com/watch?v=OoTRuzW7WL8

2011年3月15日 (火)

あらためて、「阪神・淡路大震災」を振り返る

16年も前のことだから、強烈な経験をしてても忘れていることが多くて、改めて振り返ってみると、あぁ、こういう手助けができるかも、と気づくかもしれない。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%A5%9E%E3%83%BB%E6%B7%A1%E8%B7%AF%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD

2010年4月10日 (土)

春よ、来い

1995年1月、実家の岡山に疎開していた1歳の娘のお気に入りになった一曲。これを聞くと脊髄反射的に彼の大震災を思い出さずにはいられない。。。http://www.youtube.com/watch?v=8BP0ji08A4k&feature=related

2010年2月11日 (木)

町内会(自治会)

一度だけ年次総会のような会合に参加したことがある。土地柄、兵庫特殊浴場協会(現神戸特殊浴場協会)の会長さんが来賓の一人として迎えられていた。それきり参加してないけど、何かあった時は、ご近所同士で助け合うんだろうなぁ。この界隈では未だに若手に属するから頑張らんとなぁ。。。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BA%E5%86%85%E4%BC%9A

2010年1月22日 (金)

ポリタンク

さて、岡山に身を寄せて何をしたか。1995年1月20日(金)のことである。神戸に水を持ち帰るべく、ホームセンターをハシゴして、ポリタンクを買い漁った。18ℓの赤いタンク(灯油を入れるヤツ)や折りたたみ式のウォータータンク(おそらくは20ℓ)をたくさん買い込んだ(岡山でもそれらは手に入りにくくなりつつあった)。ポリタンクに水道水を詰め、車に積めるだけを積んだ。その当時乗っていたリッターカーには8タンクほどしか積めなかったけど、それだけでも、それはそれは、ブレーキが効かなくなった。神戸の自宅は全壊こそしていなかったけど、水が出なかった。水が出ないと水洗トイレが使えない。水洗トイレを使うために岡山から150km駆けて持ち帰った水だった。自宅だけではなくご近所にも配ろうと思い持ち帰った水だった。2010年1月19日付神戸新聞の社説が次のようなことを紹介している。「窓が開いている間に 震災の1年前の1.17に起きたのが、米ロサンゼルス市のノースリッジ地震だ。その復興の報告書に印象的な文章がある。「災害直後のほんのわずかの間だけ、自らの弱点を垣間見せてくれる『窓』が開く。その間には通常の時期ならできないような試みを企てることが可能である」普段はご近所との付き合いなどそれほども無かったけど、この時はご近所にも配ろうと思って持ち帰った水だった。。。

2010年1月21日 (木)

国際電話

阪神淡路大震災のことは、1995年1月17日(火)午前1時頃(現地時間)に知った。出張先のミラノのホテルにあるTV(NHKのニュース)を通じてであり、日本時間午前9時頃である。ほぼリアルタイムに知ることができた。しばらくはTVに釘付けだったが、ふと我に返り、自宅に電話を入れた。(しばらくは呆然としていて、自宅に電話をするということさえ思いつかなかった)幸いにして電話は一発で繋がり、自宅に来てくれていた近くに住む義母が電話口に出てくれた。家族や身内、住まいの安全が確認できたので、予定を変更せず18日(水)(ミラノ発)に帰ることを決めた。それからである。ポートアイランドにある勤務先に電話を入れたが繋がらない。阪神間に住む勤務先の上司や同僚に電話を入れるも繋がらない。ポートアイランドは沈んでしまった、という現地情報すら出てきた。大阪や東京にある勤務先の事業所や九州の取引先に電話を入れて、そのようなこと(ポートアイランドは沈んでしまった)はニュースになっていないことをようやくに確認した。ずいぶんとたくさんの国際電話を入れた。チェックアウトの際に2万円近い請求を受けたが、旅費の精算は満額OKだった。どさくさに紛れて^^!

2010年1月19日 (火)

スープが冷めない距離に居た義父母

1995年1月17日(火)当時、義父母がすぐ傍に住んでいた。ミラノのホテルのTVでNHKのニュースを見て一大事を知り、自宅に掛けた電話(幸いにも一発で繋がった)には駆けつけていた義母が出てくれた。(当日の朝9時ごろ)その時の自宅は電気と電話は通じていたものの、水道とガスは止まっており、倒壊の恐れもあったので、その晩は義父母・嫁・娘とで、小学校の体育館に避難した。そして翌日、義父の運転で、嫁と娘は、義母の妹が住む加古川に身を寄せた。(義父母はすぐに自宅に戻った)19日(木)に帰宅した後に、すぐに加古川に向かうことができたのも、義父母が連絡係を務めてくれたからである。義父母とはその後もしばらくは助け合う生活が続いた。今、かつてのようなことが起きたら、そのような助け合いはできない。。。

再度山ドライブウェイ

1995年1月19日(木)、出張先のミラノから帰り着いた夕方、嫁と娘(1歳)が身を寄せていた加古川の義叔母のところに車で向かおうと思うも、R2はもちろんのこと、大開通りも上沢通りも有馬街道も大渋滞で、そんなところに緊急ではない車を走らせるわけにはいかず、思いついたのが再度山ドライブウェイ。山本通の入り口までは渋滞していたと思うけど、途中にがけ崩れは何箇所かあったと思うけど、スムーズに五辻まで行くことができた。そこから先、同じ神戸市とは思えないほど(表向きは)静かな鈴蘭台や藍那辺りを経て、明石・加古川と車を走らせた。鈴蘭台辺りの同じ神戸市とは思えない平静さは忘れられない。。。

2010年1月17日 (日)

ヘリコプター

今日はヘリコプターの音が良く聞こえてくる。ヘリコプターの音が聞こえてくると、なにかあったのか、と今でも心が騒ぎ出す。1995年1月19日(木)に関空から船で神戸に帰ってきた時の、海から見た神戸上空に飛ぶへリコプターの多さは、尋常ではなかったね。。。